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フジコ・ヘミングさんのラ・カンパネラ
フジコ・ヘミングさんのコンサート。ラ・カンパネラで癒されたお話です。10年前に家の近くの小さなコンサートホールで聴いてきました。ソロ・コンサートでした。
こんな地方の小さな会場によくぞ来てくれました!と思いながらも、まだ幼かった娘と一緒に聞きに行ったのを思い出します。
その時聞いた月の光、愛の夢、ラ・カンパネラは夫を亡くしたばかりの私を癒してくれました。
フジコ・ヘミング生涯
出生名 ゲオルギー・ヘミング・イングリッド・フジコ
別名 大月フジ子
生誕 1931年12月5日
没 2024年4月21日(92歳没)
フジコ・ヘミング。ドイツ、ベルリンで誕生する。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)
5歳から母の手ほどきでピアノを始める。
また10歳から、ドイツで母を師事したレオニード・クロイツァーに師事する。
以後東京芸術大学在学時から、長年の間クロイツァーからの手ほどきで成長していく。
その後留学の機会をうかがうも無国籍の状態では留学する事ができなかった。
ようやく留学できるようになったのが28歳。難民としてベルリン芸術大学へ留学を果たす。
ヨーロッパでの苦悩
ヨーロッパ各地で音楽活動する。しかし貧困と苦しみの中での生活は彼女の健康を奪い、チャンスであったトップクラスのリサイタルの前日、聴力を失ってしまう。
そしてリサイタルでの成果は得られる事はなかった。
その後はピアノ教師をして生活をするが、この時は自分がピアニストとして舞台に上がる事は無いと思っていた。
(奇蹟のカンパネラ)NHKからの取材で一躍脚光をあびる
母の死後、1995年に日本へ帰国しコンサート活動を行う。
1999年2月11日にNHKのドキュメント番組「ETV特集」「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が放映され脚光をあびる。
その後クラシック界では異例の大ヒットとなったCD「奇蹟のカンパネラ」(30万枚)など他作品をだす。
毎年世界各地でリサイタルを行っていたが2023年11月、自宅階段から転倒して精髄損傷の大けがをおってしまう。
また膵臓がんが発覚し、治療とリハビリをするも2024年4月21日、天国へと旅たってしまう。
フジコ・ヘミングアルバム一覧
- 奇蹟のカンパネラ
- 永久(とわ)への響き
- 憂愁のノクターン
- リスト:ピアノ協奏曲第一番
- カーネギーホール ライブフジ子・ヘミング2001
- ショパン・リサイタル
- ピアノ名曲集(イングリッド・フジコ・ヘミング)
- 奇蹟のピアニスト~フジコ・ベスト&レア
- イングリッド・フジコ・ヘミング|リスト&ショパンコレクション
- フジコ
- Paris celebre la naissance
フジコ・ヘミングコンサート感想
10年前ですが地方の小さなコンサートホールに娘を連れて行きました。海外の方もいらして流石,世界的なピアニストなんだと思いました。
特に印象に残った曲はリストの愛の夢とドビュッシーの月の光、そして、ラ・カンパネラ。
愛の夢は最初はときめくようで、途中荒々しさもあり、最後は懐かしい記憶を探る感じです。
月の光では一人、森の中で月光を浴びて癒されている感覚です。
また最後にラ・カンパネラを聞きましたが進んでいくにつれてどこからともなく、すすり泣きが聞こえてくるほどです。
コンサートホールにいる観客全員が聞き入っていました。
それもフジコさんの辛く苦しかった経験が音色となって聞こえてくるのでしょう。
そして私の心にも音が響いてきました。
それは夫が亡くなって間もなく毎日必死に生きていた頃でしたので励まされているようでした。(私の鳴らなかった心の鐘が鳴った感じ)
それにしてもとにかく、優しい音なんですよ。ご本人も音色(おんしょく)を一番大事にしていると言ってましたし。
美輪明宏さんがピアノの上を真珠が転がっていくような音だと言ってました。(納得です)
ラ・カンパネラとは
「ラ・カンパネラ」(La Campanella)はフランツ・リストのピアノ曲。ニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド「ラ・カンパネラ」の主題を編曲して書かれた。名前のCampanellaはイタリア語で「鐘」という意味である
引用:wikipedia
まとめ
10年前に行ったコンサートは私と娘にとってかけがえのない思い出となりました。
フジコ・ヘミングさんが亡くなった後、何回も何回も繰り返しCDを聞き涙を流していました。
これからも聞き続けます。オススメは「奇蹟のカンパネラ」と「憂愁のノクターン」です。
ちょっとセンチメンタルな人にはピッタリですよ。
フジコさん、きっと天国で大好きだった猫たちに囲まれながら、ピアノを弾いてますよね。
その他参考:wikipedia, フジコ・ヘミング著「魂のことば」「フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記」